胸の鏡よ 心濁すな

日記のように綴るブログ

自立

元パートナーと冷静に話して、出てきた言葉、“自立”。

 
可哀想だから、相手を救うという姿勢が良くなかったから、前の奥さんは多重人格になってしまった。その理由は自立してなかったから。
 
自分を救うのは、自分しかない。
 
だから、自立が必要。
 
このBlogの開設のきっかけになった、坂口恭平さんの、「家族の哲学」の本にこの一節がある。坂口恭平さんは躁鬱病で、奥さんに結婚する時こう言われたそうだ。
 

「べつに一人で何でもできなくてもいいんじゃない?自立してないっていつも恭平は悩んでいるけど、私と毎日、確認しながらやっていけば、うまくいくと思うなら、それでいいと思うけどなあ」と、自立していない人間でも、二人で一緒になれば何とかなるのではないか、という方針をそっくりそのまま受けとり、結婚を申しでた。フーは最初から分かっていたように「いいよ」と返事をした。

そして、躁鬱病坂口恭平さんは、自分みたいな子供ができるのは怖いというと、奥さんは、こう述べた。

 

「大丈夫、大丈夫。恭平が一人で育てるんじゃないんだから。二人でやっていけば何とかなるって。同じ人間が生まれるわけじゃないし、きっとその子たちは恭平を助けてくれると思うよ」

 

この本を読んで、日本は自立とは一人で生きていくこと、という思い込みがあるけど、人は一人では生きてはいけないという、家族のありがたみを感じた。
最後に、家族を持ち、「幸福」と述べる坂口恭平
鬱の時も、子供に助けられ、奥さんに助けられ、生きている坂口恭平
 
私も、婚約破棄の時、今母親のありがたみを深く感じている。
 
鉄道好きの元カレや、ちょっとした知り合いに、母親と共依存と、母親と私の関係性を一元論に括り付けられ、苦しんでいて、死が近づいている時に、坂口恭平に電話をした。
 
その時に、言われたのは、自分の体内にも寄生虫がいるんだから、お互い助け合いながら生きているんだから、そんな一元論に囚われる必要はない!みたいなことを言われた。私も死ねば寄生虫も死ぬ。助け合いながら生きている。
 
意外だったのは、こういう病気になったのは、家族のせいではなかったのではないかと思っていたのは、私だけではなく、坂口恭平もそう思っていたそうだ。
 
帯にもなっている、この文章が今の私に突き刺さる。
 

 

家族がよかっただの悪かっただの、いったい何を言っているのか。
家族は永遠に変わらないし、変えればいいというものでもない。かといって、それが運命だなんておおげさに考える必要もない。ただ、その目の前の現象を確認することしか私にはできないのだ。それを克明に書けばいい。何ならビデオに撮影してみたり、録音してみたり、絵に描いてみたりしたっていい。
私はそうしてきた。
目の前の現実が、いったい何なのか分からないから。

 

 私もこのblogに、大分救われている。大学の時に教わった、池田浩士先生と坂口恭平は、イベントで対談したことがあるようで、そのことを伝えたら、

尚更書いた方が良い。他人のことを。自分のこと。

と、坂口恭平に言われ、blogを開設した。自分を纏めるために文章を書いているから、あなたもそうしたほうが良いと電話で言われた。

 

私は今、何をしてるんだろう、何やってんだろう、自分、と思うことがある。

自分の身体を、自分で操縦している感覚になっていなくて、流れに身を任せているというか、自分此処にあらず、と言った方が良いかもしれない。

でも、本を読むときや、文章を書いている時は、今を生きている、今を向き合っている実感があるから、blogに救われている。

只々、ぼーっとしたり、もやもやすることを書いたら、自分が纏まる。

 

これからも、書いて救われるだろう。

私も目の前の現実が、いったい何なのかわからないから。