“自由”な人
私のパートナーについて、思うことがあったので、このモヤモヤをまとめるために、綴ろうと思う。
私は“自由”な人に惹かれるのだなと思った。
誰の者でもない、自由な人。
括弧を付けるのは、広い意味での自由ということ。
私のパートナーよりも、もっと自由な人がいた。
私の大学の姉的存在の女性だ。
誰のものでもなく、自分の生きたいように生きていた。
ちゃんと就職はしたけど、貯めたお金で、長い間付き合った恋人と話をつけ、世界を放浪した。
そして、直感的に此処にいると落ち着くと思い、ヒマラヤの村に住み、インド人と結婚した。
そのことを、地元の親友に話したら、
カースト制とか色々あるし、それを自由というの?ひとちゃん、面白いね。
と皮肉を込めた言葉をいただいた。
私が思う“自由”な人って、固定概念やレールに沿ったモデルの様な生き方をしない、“逸脱”した人なのだ。
でもちゃんと就職もするし、全うなこともできるし、一本筋が通っている人のような。
四年前、メイクレッスンを受けたら、メイクの先生に、固定概念が強すぎると指摘され、凄く凹んだ。
どこかで、私は私自身を固定概念で縛りつけているような気がする。
小中高と、人生のレールに外れたら、人生一貫の終わりと、散々教師に教わった。
でもこのBlogにも書いてるけど、レール以外の人生もあるのでは?という疑問に、高校の教えの同調圧力がのしかかり、精神を病んでしまった。
でも、薬飲みつつも、そのレールに沿った人生に戻らなくてはという意識もある。我ながら弱い人間である。
でも、地方にサラリーマン以外の生き方をしようという人が私の周りにも多い。
二十代で、起業する人も多い。
大企業で、サラリーマンで、転職せず定年までいるというのは、もう日本では過去のことだ。
与えられた仕事をこなすのではなく、自分で仕事を作る。
私の周りには、そんな気迫を持って仕事を作る人が多い。
私も、そうなるかもしれない。というより、そういう方向に進もうとしているけど、母親が良い顔しない。
大学の姉的存在の女性も、私のパートナーも、感覚に従って、素直に人生を選択し、送っている。
その素直さが、私にはない。自信が無いのが一番の私の欠点だけど。
パートナーが前、私に言ったのは、
やりたいことを奪われて、母親に刷り込みのような仕事の強要をして、仕方なく今の仕事してるから、自分が何をしたいのか分からなくなってるんだと思うと言った。
本当にそうだ。主体的に生きる。
それが、私の人生のテーマ。課題とも言えるのかもしれない。
我慢料でしかない、仕事。
自分の決定で、人生を取捨選択している、素直な生き方の人に色々学んで、人生を謳歌したい。
理想論になってしまったけど、
私の人生は、私のモノなのだ。